2004.03.29

続スピリチュアル・アストロロジー談議

桃井 「前回の談話室で、金星にも宗教を飾る以上のスピリチュアリティーがあることは分りました。
 そうすると、10室に在住する金星でも『これ見よがしの宗教生活』以上の意味合いがあるんでしょうか?」

岩田 「そうだね。10室の金星は一般的なリーディングとしては、財や名声を意味するから現世的な成功にはもともと良い配置だよね。実際の鑑定でも芸術的センスを必要とする専門職に就いている人が多いという印象がある。

 私が占星術研究の交流をしている関西在住の占星術家は、10室の金星は演技が上手いと言っているけど、この辺の特徴をラオ氏のストイックな宗教性から見ると『これ見よがしの宗教生活』と感じてしまうんだろうね。しかしそれを偽善的だと非難するのは、正確な認識ではないと思っている。」

桃井 「演技が上手いというのは、偽善的というのとは意味が違うんですか?」

岩田 「私は『演技が上手い』と『偽善的』とは、異なった意味の言葉として認識しているけど、『演技が上手い=偽善的』という考え方も、人々の間で根強いものがある。

 例えば、日本語訳の新約聖書で『偽善者』と訳されている『ヒュポクリテース』という言葉は、普通に訳せば『俳優』というのが正しくて、聖書の文脈からすれば『演技者』と訳すのが正確にニュアンスを伝えられるというようなことを山本七平氏が書いていたね。

 マタイによる福音書の6章に、
 『祈るときにもあなた方は、偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。』
 とある。この中の偽善者を演技者と訳し直すと、『彼らは既に報いを受けている』という表現には、『彼らは内心では全く信仰を持たない偽善者ではなく、真剣で誠実な演技者として真面目に祈っているから、そこに功徳の果報はある。でもね・・・・』というニュアンスになるんだね。

 だから人目という舞台に上っている間、好ましい行為で観客をもてなそうとする真摯な演技者であることは、それはそれで評価すべきだと思う。でも時代の変化、周囲の批判、経済的窮乏などの逆境に耐えて、自己の信仰を貫く強さは生来的凶星の力が必要となる。

 この社会の常識や伝統に逆らっても自己の信じる真理を貫く強さは、生来的吉星の金星、それにスピリチュアルで理想主義を貫こうとする木星であっても求めるのは難しいね。」

桃井 「それは『スピリチュアル・アストロロジーにおいては、惑星にもハウスにも本質的吉凶はない。』という見方の重要な実例ですね。

 ところで私の友人の女性に、10室魚座の高揚の度数にとても近い金星の持ち主がいるんです。でも鋭く繊細な感受性があって、けっこう生きていくが大変だなという感じなんで、これ見よがしというアクの強さは感じないんですけど。」

岩田 「その人の金星は、凶星による傷付きがあるんじゃないかな?」

桃井 「あっ、そのとおりです。」

岩田 「魚座の金星は、豊かな感受性や情緒なども意味するけど、それが凶星で傷付くとその感受性ゆえに人並み以上の辛さも味わうことがあると思う。そのため受けの良いパーソナリティーで、内面の繊細さを隠すという生活の技術を身につける人もいる。

 それが10室の金星の演技の上手さと重なると、ラオ氏のように鋭く厳しい人には、『これ見よがし』とか『偽善的』とかにとられるんだろうね。」

桃井 「10室金星のパーソナリティーの、深い部分を読み取ろうとするのは、なかなか大変ですね。」

岩田 「10室魚座の金星は、国際政治の修羅場に生きる政治家にもあったりするけど、その場合はまた別の意味がある。そういう意味では、インド占星術というのは一生勉強して一生上達していくだけの深さと広がりがある思う。」